カリスマ実業家に憧れて民間企業で勝負 ほふく前進でつかんだチャンス 

30歳になったら自衛隊を辞めて民間企業で勝負する。そのビジョン通り、海上自衛隊で順調にキャリアを歩んでいた佐藤禎之さんは新たな道への挑戦を決めました。憧れのカリスマ経営者と接点を持つため、ビジネスプランコンテストに出場し、ファイナルステージではほふく前進を披露。強烈なインパクトを残した結果、憧れの人と一緒に仕事するチャンスを手にしました。【全2回の前編】 

目次

【プロフィール】 

佐藤禎之:高校卒業後に海上自衛隊に入隊。艦載部隊や救難飛行隊でヘリコプターのパイロットとして活躍し、30歳で退職。アメリカの靴下ブランド「リトルミスマッチ」の日本販売代理店社長を経て、「オイシックス・ラ・大地」に就職。現在は出向先の「とくし丸」で働きながら、化粧品を販売する「シールズ」を経営。 

古川勇気:2024年7月にBallista入社。8月からスタートした「Catapult」を担当。防衛大卒業後、入社試験時の適性検査を販売する企業で営業職などを経験。人材獲得や入社後のミスマッチに課題のある会社の内定率向上や離職率低下に貢献した。 

自衛隊でかなえたパイロットの夢 30歳で民間企業に挑戦 

古川:まずは、自衛隊に入った理由を教えてください。 

佐藤:子どもの頃からパイロットに憧れていて、最短で夢を実現する方法を高校2年生の時に調べました。その時に知ったのが自衛隊でした。しかも、パイロットになるための費用がかからず、給料もいただけるので、これ以上のところはないと考えました。周りからは「自衛隊は大変」と言われていましたが、大学でキャンパスライフを楽しむ同世代と違う経験をした方が将来に活きると思っていた部分もありました。お金を払っても経験できないことを自衛隊では経験できたので、有意義な時間でした。 

古川:自衛隊では主にどのような任務を担当されましたか? 

佐藤:海上自衛隊に入隊して、25歳までは艦載部隊に所属しました。私はヘリコプターのパイロットだったので、護衛艦の後ろに乗って潜水艦を探す任務をしていました。その後、29歳までは救難ヘリコプターのパイロットでした。その後、特別警備隊で半年間勤務してから自衛隊を離れました。 

若手実業家に憧れ ビジネスプランコンテスト出場 

古川:パイロットの夢をかなえて、海上自衛隊では特別警備隊にも抜擢されています。順調に自衛隊でキャリアを重ねていたにもかかわらず、なぜ辞めようと思ったのでしょうか? 

佐藤:救難ヘリコプターのパイロットをしていた2000年頃、世の中はベンチャーブームでした。後に私の師となるタリーズコーヒーの松田公太さんやサイバーエージェントの藤田晋さんら、日本を動かしている若手実業家が輝いて見えました。自分も30歳になったら自衛隊を辞めて民間で勝負すると決めました。自衛隊の仕事にも充実感はありましたが、一度きりの人生なので民間に挑戦しようという気持ちが強かったですね。 

古川:民間企業への挑戦を決めて、最初は何から始めましたか? 

佐藤:民間企業で働いた経験も経営の知識もないので、まずはメンターを見つけようと考えました。せっかくなら見た目も生き方もかっこ良い人にしようと思い、ターゲットにしたのがタリーズの松田さんでした。松田さんに近づく方法を探す中で、チャンスをつかんだのがビジネスプランコンテストへの出場でした。そのコンテストは松田さんをはじめ、そうそうたるメンバーが審査員を務めていました。ここで目立てば名前を覚えてもらい、一緒に仕事する機会を得られるかもしれないと考えてエントリーしました。運良く勝ち上がってファイナルステージまで進みました。 

最終審査に残る方法を逆算 最終審査はほふく前進披露 

古川:ビジネスの経験がない中で、どのようにしてファイナルステージまで進めたのですか? 

佐藤:書類審査から始まって、東京大会と関東大会を経て全国大会がファイナルステージでした。私の目的はコンテスト優勝ではなく、最終審査に残って松田さんに自分を知ってもらうことでした。ファイナルまで進むためには、インターネットサービスを活用したビジネスプランが良いと考えました。そして、書籍で読んだ「ビジネスは掛け算」という言葉を思い出して、当時流行っていたドロップシッピングとインディーズアーティストを掛け合わせたプランを立てました。インディーズアーティストの楽曲をドロップシッピングで配信する内容です。 

古川:なぜ、ビジネスと掛け合わせるものがインディーズアーティストだったのですか? 

佐藤:その頃、知人のミュージシャンがプロデビューしたものの、曲が売れなくて悩んでいました。実際に見聞きした課題をテーマにした方が、コンテストで発表する時もリアリティを出せると思いました。プレゼンの資料はインターネットで検索して、参考にしながら作りました。ただ、知識や経験が豊富な経営者が審査員としてそろうファイナルステージでは、私がビジネスの話をしても薄っぺらくなってしまいます。そこで、審査員と約1000人の観客がいる前で、ほふく前進を披露しました。会場は大爆笑でしたね。 

憧れの経営者から電話 一緒に働くチャンス獲得 

古川:ビジネスプランコンテストに出場して、目的としていた松田さんとの接点は生まれましたか? 

佐藤:コンテスト終了後、審査員の方々に手紙を書きました。すると、半年後に松田さんから「机の引き出しを整理していたら君の手紙が出てきました。今からタリーズに来ていただけますか?」と連絡をいただきました。すぐにタリーズの社長室へ伺ったら、机の上に赤ちゃん用のカラフルな靴下が並んでいました。そして、松田さんから「日本で販売する権利を買ったので、売ってみない?」と言われました。よく分かりませんでしたが、「やります」と即答しました。この靴下は左右で違うデザインをしていて、アメリカのリトルミスマッチという企業が製造していました。松田さんは日本の代理店としての権利を購入していて、その社長を私が任されました。 

古川:リトルミスマッチでは、どのような仕事を担当されましたか? 

佐藤:社長と言っても従業員をたくさん抱えているわけではないので、自分で何でもやりました。最初の営業先はソニープラザでした。その頃のソニープラザは情報番組のメインスポンサーを務めるくらい勢いのある雑貨屋でした。松田さんと一緒に商談に行って、その場で全店舗での販売が決まりました。しかも、買い取りという好条件です。この瞬間、「ソニープラザに置いてもらえば流行らないはずがない。自分の人生は成功が約束された」と本気で思いましたね。契約がまとまってから、先方の担当者と私が残って細かい条件面を話し合いました。恥ずかしい話ですが、先方から「卸はどのくらいにしますか?」と質問された私は「卸って何ですか?」と聞き返しました。それくらい無知でした。 

成功確信から大ピンチ…輸入元が倒産 

古川:ソニープラザでの販売が決まり、順調に売上は伸びていきましたか? 

佐藤:情報番組で紹介してもらったにもかかわらず、全く売れませんでした。今思えば当たり前かもしれませんが、柄違いの靴下が3つで1セットになって店に置かれていても、消費者の理解が追い付かなかったんです。結局、ソニープラザから大量の在庫を買い取ることになり、絶望的な状況でした。 

古川:大量の在庫を抱えて、どのように現状を打破しようと考えましたか? 

佐藤:自ら直接売るしかないと考えました。ワゴンショップや百貨店の催事で手売りしました。店の近くを通る人に声をかけて、柄が違う靴下を履く楽しさを説明しました。左右のデザインが違う靴下を子どもが選ぶと頭が良くなるという大学の先生のコメントを引用したこともありました。販売のコツが段々と分かってきて、売上は伸びていきました。ところが、そんな矢先に靴下の輸入元だったアメリカの企業が倒産しました。会社には借金が残っていましたが、販売する商品がなくなり、どうすることもできませんでした。

【後編に続く】 

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

2024年7月にBallista入社。8月からスタートした自衛隊出身者のネクストキャリアをサポートする事業「Catapult(カタパルト)」を担当。防衛大学校卒業後、入社試験時の適性検査を販売する企業で営業職などを経験。人材獲得や入社後のミスマッチに課題のある会社の内定率向上や離職率低下に貢献した。

コメント

コメントする

友達登録 LINEで新着情報を受けとる
友達登録で特典プレゼント